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苑長ブログ

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頑張れ日本 若者は今

2011-11-18

「頑張れ日本 若者は今」

 この言葉は今なお、日本国民の合言葉になっている。スポーツ界でもなでしこジャパンが世界大会で優勝・・勇気と感動をあたれてくれた。ゴルフ会では石川遼選手が賞金全額を寄付すると宣言、被災地の見舞いにお訪れたり子供たちにゴルフ教室を開き、たくさんの子供たちを笑顔で元気づけている。ボランテイアに行った娘から「全国の学生・青年たちが積極的にボランテイアに参加。その若者達が確実に大きく成長・変化が出てきている」と聞いた。大学からはバスを貸し切って参加・・机上の学問から体験を通して実学となっている事。また今まで引き籠りだった若者たちが少しでも役立ちたいという気持ちで参加。帰宅後社会復帰の力となっているそうだ。このように東日本大震災は「人の為に世の為に生きたいという」本来人間が持っている本能を目覚めさせてくれている。自己責任論でずたずたにされた人間の「絆(きずな)」を若者たちが先頭に立ち、日本の在るべき姿を指し示して立ち上がっている姿が頼もしい。そんな若者たちにエールを送りたい。

「未来は青年のものだ」

頑張れ日本

2011-04-25
「頑張れ日本」 この言葉は東日本大震災の中で開催された選抜高校野球の宣誓で創志学園の主将が最後に言った言葉である。
三月十一日は千年に一度あるか無いかの「東日本大震災」が発生した日である。
二万人以上の尊い人命が犠牲となり、今なお数十万人が非難生活を送られている。そして放射能汚染の影響が人々の暮らしを怯えさせている。その日から私はすっかり体調を崩した。彼岸の説教も出来ないくらいダメージを受けた。そのとき高校野球の開会式を見たのだった。「人は仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じます」と。被災地でない地域が活性化し活発な経済活動をすることで税金が増え、被災地の復興資金の財源となるように必死で頑張ることが今こそ求めらているのだろう。この生かされた命を完全燃焼すべく最後の御奉公を決意した。
   満月に 初めて祈る 救済を

 

新年挨拶

2011-01-01
 明けまして おめでとうございます。
  卯年 聴くことが「ちから」生む
 ある小学校での学級の出来事が新聞に載った。髪の毛をタラッと垂らし、にこりともしなかった女の子が学級を好きになり心を開き、本音の作文を六枚も書いた。「お母さんは妹を連れて出て行きました。残された姉は不登校になり私に家庭内暴力をします。ベランダに出され夜眠られなかった。私は家出をしました。でも私はお父さんに言えません。お父さんは今、会社が倒産寸前で走り回っているからです。そんなお父さんに心配させたくないからです。生涯にわたって、私はこの悲しみを背負って生きていきます」と書き読み上げた。勇気ある内容である。もっとすごいのは、この後子ども達が集まって、彼女の背中をさする子、「ウンウン」と顔を見てうなずいて彼女を励ましたそうだ。思いを共感し、手を差し伸べている。全人格、全人生をかけて「聴いて」いる子ども達の姿がすばらしい。
 介護の仕事も「人が体から人生から生み出す言葉を、とことん本気になって聴くこと」で「つながり合う」事。両手で助け、守り、応援する。まさにまなざしが手になり、声がまなざしになる仕事です。卯年の年こそ、ウサギのように大きな耳で「聴く」事を大切にしたい。

kさん ありがとう

2010-10-19

もう2カ月前の事である。近くのガソリンスタンドのkさんが亡くなった。48歳であった。一灯苑の機関紙「あかり」で「kさん さようなら」という追悼文を載せた。すぐ数名の方からお手紙を頂いた。やっぱり私と同じように「辛い、さみしい思い」で暮らしていらっしゃったのである。もの静かで笑顔での対応でガソリンンを入れて頂いていた姿が懐かしい。何か、御力になれなかったのだろうか。自責の念がまた募ってきます。
 kさん。如何お過ごしでしょうか。まだ亡くなった事が信じられず貴方の姿を探す御客さんが多数いる事を知っていますか。あかりの追悼文に沢山の方から共感の言葉を頂いていますよ。辛い中、笑顔を絶やさなかった貴方の優しさが、今まだ尚、沢山の方の胸を締め付けてますよ。
 一灯苑では「笑顔」と「優しさ」と「挨拶」を受け継ごうと取り組んでいます。貴方を思い出す度に「笑顔」や「挨拶」や「思いやり」の大事さを痛感しています。  今日は、「ありがとう kさん」で終わります。   合掌

理事長(母)の誕生日に思う。

2010-08-02
今日は、理事長(母)の誕生日である。子供たちがいた頃は誰かの誕生日になると近くの温泉に出かけ食事会をするようにしていた。子どもたちが大学に進学、子どもたちいなくなってお出かけは無くなった。昨日から母が温泉にゆっくり浸かりたいと言い続けている。母の相手も妻の相手も昨今ゆっくりする暇がない日暮しであったと思う。母親としては「ここぞ」と思って言っているのであろう。
小4年の時、1年間もの間、母親の看病の為、学校には行かず親孝行したそうだ。しかし、看病のかいなく、実母と生き別れ、2人の継母といろいろと格闘しながら母親代わりの少女時代を送ったそうだ。嫁いだ先は、貧しい末寺であった。ふんどしもふせしてあるのを親父が身に付けていたという。赤貧の中、裁縫の内職で経済をまかなったという。思い出せば服はほとんど手作りの物だった。母は実母が早死にした為、行きたい学校も充分行けなかった。その分、生まれた私たち3人の子供たちには厳しい教育ママとして、子育てに臨んだ。そのかいあって、3人それぞれを宗教者・保育士・医師となった。
 86歳の今日・・ゆっくり母の苦労話を聞こうと思う・・何故かしら苦労話を聞くとやる気が出てくるから不思議である。考えれば「母子家庭の人を採用するように」「ぼろは着てても心は錦」「貧者の一灯」「人にやさしくしておいて損する事はない」等父親代わりに人生訓をその都度教えてもらった事を思い出す。その願いのもと、この一灯苑は「心やさしく」あり続けなければならないと思い続けて努力してきた。
 小4の少女が、今は約100名の職員を抱える福祉会の理事長となったのである。実母亡き後、父親が亡くなり、嫁いだ先の夫(私の父親)は47歳で先立つという不幸の連続であった。少女から母親代わり・・母親から父親代わり・・坊守・・園長・・理事長へ・・・波乱万丈であったと思う。直接言えないのでブログにて「ありがとう」「御苦労さま」と書き込ませて頂く次第である。これからは、孫たちに囲まれ静かで豊かな暮らしであるように願うばかりである。
 
 
 
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